長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

殺殺

ブログの更新がまた空いてしまった。
なんでって言われても忙しくてめんどくさかった他ない。

忙しかったからブログの更新がめんどくさかったのか、忙しいことがめんどくさかったのか。


最近リアルが充実していて喜ばしくない。
実に喜ばしくない。

二週間前にはサイエンスインカレで1000kmくらい電車に乗ったし、
ここ数日はサークルの合宿で300㎞くらい運転した。
中学や高校のオタク共とも頻繁に会っているし、
毎週金曜には治験の件で浅草に行く。

リアルの充実とともにネット(ゲーム)も充実してしまっているから勉強できていないし、
疲れるし、実に芳しくない。

意思はあっても意志がないので人の誘いを断れない。
治験でそれなりに金の余裕ができたら猶更だ。
それで自分のざっくばらんな計画に乱れが生じて鬱々としてしまうのがお決まり。
誰かが俺の医師になってくれないとだめだ

俺は引きこもりなんだぞ。

あー



あーーーーー


そういえば最近気付いたこととして、自分はポジティブな人間としてやっていますが、ポジティブな感想を抱くことが苦手で(?)、
そのために例えば
コロコロコミックコロッケ!は"少し"好き」「これは"ちょっと"好いね」などと言ってしまうのですが、
これは逆に、自分が何かしらの感想を得ているという表れであり、ポジティブな形容であると思った。

なんでポジティブなことが言えないのかと言えば、感情表現が苦手であることがあげられ、
その理由としては主観性の無さからの主観的意見(≒感情)が少ないということだろうかと思われる。



ところで、僕はポジティブな人間ですから、facebookを見ていると殺意が沸いてくる。

他には大学に行くと殺意が沸いてくる。

殺意には二種類あって、僕はこれを「ポジティブな殺意」「ネガティブな殺意」と呼んでいる。

言葉遊び的に、「死にたい」という根源欲求を「ネイティブな殺意」とも呼んだりしている。


ポジティブな殺意が今、facebookを見て沸いている。

「このリア充共が。こいつらを殺してやる(くらいの気持ちで頑張って大成してやる)。」
というポジティブな殺意が沸々と湧き上がる。

一方で、とあるソシャゲに付きっ切りになっている自分が最近顕在している。
明らかに健在(建材)ではなく「廃在」(廃材)だろう。

2年間細々と続けているゲームの1/10のプレイ時間を一か月で既に成し遂げたゲームだとかがある。

しかしそのゲームも未だ現時点でのクリア地点に到達できずにいる。
それはあと数日の内に辿り着かなければならない山であり、それが僕のモチベの山でもある。
この足を踏み外したとき、それはサークルの合宿で散歩がてら登ってしまった山のような傾斜で、自分がゴロゴロと崩れ落ちるとともにそこに堆積された落ち葉(落ち単とかけている)が雪崩を形成して僕をあっという間に覆いつくしてしまう。

費やした塵のような時間は積もって山となるが、それは重く自分にのしかかり、暗い影を残している。
何回目の黒い影か。
この現実は自分に殺意を抱かせる。

今まで費やした時間を返してくれよ自分…。
過去の自分程殺したい人格はない。これはネガティブな殺意。
動機も何もが意味を成していない。完全に自己的な地獄である。
意志がないので、続ける意味のなさに気付かせる意思がなければ何もやめられないのだ。
利己的な天国に留めてほしい。

(正直この殺意は少し盛っていて、本来は哀しんでいる人を見たときに殺して楽にしてやりたいという殺意が沸くほうが強い。そのような殺意も、自分の優しいポジティブさから来る哀しい殺意だ。)

(あとはもう一つ、本当のネガティブさとして、人は誰も分かち合えないなどの孤独感から「だったらもう誰も要らない」という想いの「みんな殺す」というネガティブな殺意が生まれることは否定できない。)




でも、それでもゲームをやめられずにいる。

金のかかる依存より、時間のかかる依存のほうが劣悪だ。

本当に自分を殺してやりたい。


でも、僕は中学高校の同級生を殺さなければならないので、ポジティブに、
このゲームらから解放されたときには、そのゲームで培った集中力が発揮されるだろうという楽観的思考で生きていく。


もはやポジティブでなく馬鹿でしかない。



道端の石ころのように意味のない意志だ。


早く俺は死んでくれ。


みんな殺す。



それでも いしを殺殺と転がしている。