長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

ていたらく

人は働くそして堕落する
僕は用事が一段落した。働かないそれでも堕落する。

2年くらい細々と続けていたゲームをついにやめた。
これは俺にとってのすごいことだ(適当)

飼い犬に親指を噛まれて負傷し、しばらく使えずとてもつらい日々を過ごしていたがそれももうじきよくなりそう。

最近めっきり数学的な記事を書いていないので複雑な気持ちである。

あと、このブログは危なげですが僕は元気ですし客観性を保っていますしポジティブなので大丈夫です(過去記事参照)。


最近、用事が一段落したこともあり、自分が何を考えているのかについて考えてみた。

なんでそんなことをしたかって言ったら苦しかったからで、
なんでそんなことで苦しいかって言ったら苦しいと20年も生きてきたからで、

20年間悩んできたことが無碍であるとわかってしまったときにそれは果たして意味のあることなのだろうか
って思ってしまうと怖くなってしまい、20年間悩んできたという事実を否定しない方向へと僕は進んで行ってしまう。

これは悩むことじゃなくてもなんでもそうで、
例えばソシャゲとかも続ける意味なんてなくても続けてきた事実を否定しないために続けてしまって、しまった。

行動力がないのではなくて、慣性や歓声で完成されてしまって、感性が息をしていない。遺棄されてしまった。

行動力もスタミナもハートも無駄にしないように必死に時間をやりくりすることで現実の行動力は使い物にならなくなってしまった。


さて、ではどうしよう。
20年間悩んできた意味とは?
と、考えていてなんか自明な結論に無理やり落とし込んだ気がするがめんどくさいのでそれについては今日は軽く「導出の過程」を述べるのみとする。

意味があるかないかで場合分けをして考察する。
まずはないものと仮定したところ結果として弱すぎてつらくなった。また、生きている意味があるのかどうかと結び付けて考えることによって、(悩んできた)意味がないとしたら諸々の主張が崩壊するので意味があるとして考えた。
意味があるとき、では自分がそもそも何について考えたかと言えば
なぜ生きているか⇔生きる意味はあるか⇔何がしたいのか⇔何をするべきなのか
このような推論(ここでいう"⇔"は特に深い意味はなく、双方の命題にある程度の「補足」を与えてやれば同一視できる、または推論可能という程度の意味)により自分は今何をしたいのか、するべきなのかという結論にたどり着く。

そして結局、幸せになる、金持ちになる、数学を頑張る 程度の解が導かれ得た。


で、こうなって、今後も悩むべきなのかどうかについて考えたところ浮かんだのがブログであって、
このブログでは結構当初の予定とは脱線してしっちゃかめっちゃか書いている。
かと言って数学的な記事だけを分けて書く程の気力や学力もなく、そのまま惰性で続けさせていただいているが、
このブログは途中から自分の思考をある程度まとめていこうという想いを持って描かれている節がある(自然に指が"描かれている"とタイプしたのでそのままにしておこう)。

そう思うと、悩みというものについて真摯に向き合った結果をぶろぐに書き留めておき、今後まとめなおす(かもしれない)という方針を取りつつ、Twitterで暴れているのが相も変わらず心地よい。
そしてリアルではゲームや娯楽もそこそこに数学をやらなければならない。

なんと自明な帰結なんだろうか。
もう20年間をやり直したい

とりあえず時間がないからこのブログを読んでる人の時間をいただくことにしました。

なんて言ったら苦しいていたらく

better luck

forever楽