.jumのart

俺が「あー。」と言うだけ

ちけん

人は誰しも承認欲求を持っていると仮定すれば僕も人に理解されたい。
しかし人と関わることは色々と不都合なことがある(証明略)。
しかし人と仲良くせずして理解は得られない。
つまり人と関わりたくないので仲良くしたくないが人に理解されるために仲良くする必要がある。
よって鬱

という知見を得た。
ある種自明だが驚くべき結論だ。

明日は治験の通院なので寝ないとまずい
よって鬱

寝坊は危険

以上ですおやすみ


追記
なんで驚くべき結論であるかを下にまとめる。

僕はコミュ障の割に多少はコミュニケーション能力があるし、人間が好きだとは思っていた。

でも、よくよくこの結果と推論を眺めてみると、

「人間が嫌い。」でも「愛されたい。」だから「適当に関わっている。」ということがわかってしまった。

僕には人間そのものに対して知的好奇心以上の何か好意というものが特になく、ただ恩や道徳や社会性や倫理観といったもので交流をはかっていただけという節が出てきてしまった。
確かに知り合いや友達(という定義は曖昧であるが知り合いより少し上位の存在であるという再帰的定義のみ与えておこう)の中に好ましい人物はいるが、
彼らと存在を共にすることで感じるのは「自分の求める方向性に関して」何か有意義であるという点が大きい。
ここでいう自分の求める方向性というのは「社会性を捨てる」ということに帰着されると言ってもいい。もっと広く学術的であるとか研究思考であるとかなんかそういった話にもできるがそれはこの際どうでもいい。

単純に尊敬できるということや自分との同一性に惹かれている節もあるが、基本的に完全に向上心か自己愛の結果が好意や友好に現れてしまっている。

つまり突き詰めたところ他人、他者そのものへの興味が全くと言っていいほどなかったのかも知れない。

これは、ハッキリ言ってショックである。
ショックな理由として考えられるのはこの事実を認めてしまったときに
「今までの自分は何だったのか」「これからの自分はどう他人と接すればいいのか」ということや単純に刷り込まれている倫理的な問題からショックであるんだと思う。
また、他人との接し方に多少の違和感を覚えるだけでなく、多少の絶望も感じざるを得ない。
上っ面の交友だけで深層心理を分かちたいと言っているようなものだ。
わがままにもほどがある。
それこそTwitterで知り合ってブログを見てくれた人のほうが余程良い。

ショックだ。

今までの交友関係を洗いざらい天秤にかける。
どういう意図で付き合ってきたんだろう。
単純に好意を持つということが否定されかかっている今、友達の存在が危ぶまれている。
前にも友達がわからなくなってしまい、友達の定義をかなり独特なものとした(深層心理を分かつなど)おかげで友達がいなくなってしまったが、
今回のようなかなりゆるい定義でも、自分が友達だと思うあるいは自分が友達だと思ってもらえる関係であることの保障が限りなくなくなってしまったのかもしれないと感じる。

異性の友達については上記に該当するが、恋人等は上記に該当しない(生物学的要因や心理学的要因により非常に付き合いやすいので)。
しかし、上記を適用することはできて、
友達<=異性の友達
深層心理を分かち合った友達<=恋人(あるいはそれ未満)
このような考えを用いると、どうようにショックだし気軽に絶望できる。

どうしよう。
僕は人と関わりたくなかったのだろうか。
人が嫌いだったのだろうか。
ビジネス、オフィシャル的なことはいいとして、どうしよう


君のこと友達だと思ってないかもなんて相談できる友達もいない


このブログに書いていることはどれも身近な友達と共有して議論できる内容でないのでとてもつらい


人と関わりたくないのに理解されたいなんて、どうしようか


最近忙しかったので一過性の孤独指向だと思いたい。
でも無理に孤独から連れ出されると吐き気を催すから、どうしようかなあ