長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

振り返る

お久しぶりです。
このブログの読者の人は生きているのだろうか。

僕が最後に何かはてなに書いたのはきっと下記の記事
jumffff.hatenadiary.jp
が最後です。
この記事は、ちょうど今から一年前くらいにこのブログとは別のブログで(このブログのような鬱屈した記述をやめてもいいと思って書き始めたブログで)博士後期課程進学を決意した記事です。

このブログ(長い書き損じ)は、ずっと僕の表現の場として機能していました。
鬱屈とした感情を吐き出していました。

一方でもう一つのブログ(Real face)では自分が修士課程に進んでからの価値観をハッキリと記述することを心がけていたように思います。

(だから、俺のまともな考えを読みたい人は「Real face」を、俺の読みづらい稚拙な考えを読みたい人は「長い書き損じ」を読むと、良いかもしれません)

そして、修士課程の2年間がそろそろ終わりを迎えるという段階で振り返りの記事をあげることにしました。
誰も読まなくても、これは自己満ですが、このブログのほうが少し読者がいるので、こっちに書いてみました

今日、大学で創立記念祭があって、学科内部で色々と深い話をしていた。

僕のお世話になった先輩や、僕と一緒に進学する同期なんかと会ったり、彼らや先生の寄稿した記念誌を読んだりした。
俺は出張帰りで、正直遅刻しかけたくらいだったのだけれど、査読付き論文の最終原稿を投稿するとかの雑用をこなしながらぼーっと酒を飲むのは少なからず大切な時間であったような気がする。

俺はあまり飲み会が好きじゃない。というか、友達とはっちゃけて飲む酒をすることももう終わってしまった。
(同期はほとんど就職してしまったし、学生のはっちゃけ自体にあまり面白さを感じないし。)
かと言って、先生に付き合って酒を飲むとか、先輩に付き合って酒を飲むとか、それ自体にも価値を感じない。
俺にとって飲み会はそういう場で、話を上手く回して愉悦と優越を得るとか、常に周囲に気を配って気の利く部下を演じるとか、
そう言った交感神経の出る「ゲーム」以外の楽しみは、もうほとんどない。
ゲームが楽しいのは当たり前だが、楽しいことだけやって終わる人生は、楽しくない。

惰性と社会性の交感神経か、語らいと慰みの副交感神経をやるとして、俺は前者の飲み会を尽く排除するような立ち位置の獲得に努めている(研究室とかではね)
もちろん、社会性を使って仕事を得るような場ではまた違うんだけど、研究者や先生や学生と飲んで「好かれること」は重要じゃない。たぶん。
だから、4時間ある飲み会の中で自分の立ち位置を上手く掴んで、好きな人とだけ話したり、ゆっくりとだけ話したりしたのは良かった。

こうやって俺は、飲み会以外の場でも色々なところに立ち、できることややれることをあえてできないアピールを上手く嫌われることなくして、その場にあった自分の形をつくりながらぼんやりと生きていくんだろう。

だから、TwitterなどのSNSと、リアルの俺はやってることが違うし、「好かれたい」とか「働きたくない」とか「絵を描きたい」とか、そう言った欲望のない俺は、ぼんやりとそこに存在している。本当にやりたいことなんて、ただぼんやりと物思いに耽る以上の何かはなくて、それを阻害されたくないから、あいまいな仕事をやっていることがいい。そこに俺の能力が最もフィットしているのが研究者や研究者として立場を持つことや数理エンジニアなんだろうたぶん。
だからカレーは作らないし、なんでもやろうなんて思わない、行動することは正義だが、俺は行動せずに戦うことをもう何年もやり続けている。考えるという行動だけしかし続けてこられなかった後悔の連続が僕の今の思考の頑強性を形作ってきている、と自分を信じてやることが昔よりも少しできるようになった。
先輩に年収800万円くらいの仕事だったらあるよ、と言われて、あまり惹かれなかったことに改めて驚いた。
俺は年収800万円稼げるとしても、半分休んで年収400万円が欲しい、そして社会で半分休むことが許されるような能力の人は、日本でいくら稼げてどのくらいいるのだろう。というかそもそも他者との比較が完全に興味としてなくなってしまった。立場が違うし能力も違うし、稼げる額も違うだろう、みたいなそういう理論を抽象論だと思っていたが、それが自分の中に落とし込まれてきた。なんでだろう。「自分に自信がついた」ということなのだろうか。気持ち悪い。

さて、飲み会の話はもうよくて、俺の大学生活や大学院とかの生活を振り返ろうと思う。




でも途中で寝ちゃったから書く気なくなった。また今度にする

まあ元気にやってると思う。俺は運が良かったこととか、俺にとって研究をするとはどういうこととか、数学があんまり好きじゃない気がすることとか、
そんなことを書こうと思っていた。

昔よりも、かなり鬱がなくなった。
自分と向き合い終わって、前向きのことを考えているような気がする。博士に進学するにあたって腹を括っただけなのかもしれないけど。

俺は昔から無気力な子供だった。
無気力だったから、主張もなくて、強いて言うなら「めんどくさいこと」を避けることばかりしていたとてもいい子だった気がする。

そんな中で「片付け」「整理」が気持ちいいなって思ったことと、
「一般化」「抽象化」はめんどくさくなくなるからいいなって思ったことと、
現象数理学に出会って、世の中を数式で抽象的に記述できると知ったことと、
数理論理学に出会って、仮定と論理というものを意識するようになったこと。

そこらへんは、今の自分を形作るに値している、多分。
一般化抽象化を直感的にやれている自分の生き方は、一般化抽象化できるのだろうか、という葛藤を常に抱えている。
でも、そんな葛藤があっても楽しけりゃいいんじゃね?という諦めにも似た心地良さを最近はずっと感じる。

せっかくなので1年間分の振り返りだけ書くと、・・・
・・・
大学にあまりいなかったので俺の思い描いていた大学院生生活はできていなかった気がする。

ぼーーーーーっと一人で好きなことをやっていた。研究(運良く企業の研究所にアルバイトで入れたりしたが学振は落ちた)とか、研究発表(なんか知らんけど月一ペースでやってた)とか、出張と合わせて旅行もしたし、「遊び」をやってたのかはよくわからんけど「遊び」なんていつでもできるんだから今やらなくても良くね、みたいな気持ちと、とにかく思いつきで人に会いまくるというような「遊び」をやっていたかも。

もう俺が「学生生活」をすることはないんだろうか。
ただのエモエモ人間としてしばらくを遂げてしまいそうだ

あと、何年後かに自殺するかもしれんというのはかなりマインドを健全に保つ。

この記事をTwitterにも挙げようと考えているのは完全に思いつきで、「白紙」が終わりを迎えるということなのかもしれない。