長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

生きた得たい

大学院に行く。
その理由は学ぶためと、自分の本当にやりたいことを考える時間が欲しいからと、もう少し自由に生きていたいからである。
以上。

サークルだるい(ポジティブな感想)



自分の本当にやりたいことは
・惰性で生きることなのか
・自由に生きることなのか

よくわからない。

「惰性で生きる」それはつまり適当に就職して適当な家庭を築いて適当に死ぬことである。
いや、全然惰性じゃなくて、普通の暮らしで、称賛に値することなのですが、
僕の悩みからするとそれを解決しない「惰性」で生きていくということです。
この場合悩むべきところは後悔しないか、ということです。

「自由に生きる」それはつまり普通の暮らしじゃないってことなんですけど。
やりたいこといっぱいあって、それをやるために生きていくことです。
フリーターとか研究者とかなんでもいいけど。
それの問題はさみしくなるんじゃないか、QOLが低いんじゃないか、能力がないんじゃないかということです。


もやもやして悩みがまとまらない。

自分の能力を活かしたいという気持ちはとりあえずあるのだが、
それは「仕事」に発揮すべきなのか「趣味」に発揮すべきなのかという問題がある。
仕事に発揮すべきなら全力で金を稼ぐべきだが、いい会社に入るとかやいい収入を得るとかは望みでない。
そんなん、既に競争に出遅れている感が否めず、能力でのし上がったとして、どこかで落ち着いて何か満足するのだろうか。
その満足は妥協なんだろうなあと思ってしまう。






なんかTwitterしてたら悩みがまとまった。

「惰性で生きる」とき、そこには必ず「なんか満ち足りない何か」を感じてしまう確信がある。
しかしそれを無理矢理取り繕う「幸せ(愛)」を得ることはできると思う(というか得られなかったら惰性で生きる意味がない)。

「自由に生きる」とき、「満ち足りるために頑張り続ける」ことはできるはず。
が、しかし。しかし?
そもそも生きていけるのか?
幸せ(愛)は得られるのか?
いつか満ち足りるのか?


惰性→死なないために生きる
自由→生きるために生きる

こんな感じだ

死なない理由を与えられて生きるか、
生きる理由を求めて生きるか、
なんだ、また自明な結論な気がする。

どっちが正解かなんてわからない気がするけれど、
自由に生きていきたい気持ちがあり、
惰性で生きることが正解だと気付くには自由に生きる必要があると思う。

惰性で生きてても
「これで良かったんだろうか。いや、愛の力で良いと思い込むことにしよう。」以外の正解が得られない。
ゴールがない。見当付かない。
ゴールがありそうという気持ちで惰性で生きる覚悟をする勇気はなさすぎる。

自由に生きることのほうがまだ光が見えそう。
いや、もしかしたら惰性で生きることは道が光で満ち満ちているせいで光に気付かないだけかもしれないけど、
その光に気付くには、自由に闇を生きていかなければならない。。。
なんてことだ。
なんてことなくない。

哲学をやりたい気運がある。
論理学の中で生き、形而上学的にそのまま死んでしまいたい杞憂である。


あ、。

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