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俺が「あー。」と言うだけ

円周

2月の1日目がもうすぐ終わります

今日は「演習」するってことに納得を覚えた日です。


僕は今まで経験とか練習とかを信じてなかった(というよりも、そんなものに価値を見出していなかった)。

なんでかって言うと、経験とか練習って結局は偶然の産物、みたいなもので、
再現性がない、科学的に無価値だと思ったりしてたのかもしれない。

もちろん、経験や練習の成果が物を言う分野だってそりゃあある。
例えば絵を描いたり、歌を歌ったり、楽器を弾いたり。

でもそういう分野にこそ理論を持ち出して、体系的に人を感動させることができたら、
それは幸せなことじゃないですか?幸せの進化じゃあないですか?
機械的で寂しい冷たい幸せだと思いますか?


いや、寂しくて冷たいのはあなたでしょう。


そうなったら進化した幸せを使って、新たな感動を生むべきでしょう。
だって、経験や練習が正しいって言うんだったら、そういう世界になったときにあなたがすべきことは、
そういう世界で練習して、その経験を活かした感動を生み出すべきでしょう。




って思ってた。
けど、それだけじゃあないんですよ。

例えば、プログラミングって、経験や練習が物を言う分野だと思いませんか?
勿論知識や理論だって重要だと思いますが。

だから僕は知識や理論を学びながら演習してたんですよ。
そしたら、

本持ちながらやるのだるい

んですよね。
だるいんです。

結局一通り演習しちゃって、それから理論や知識を後から付けていったほうが、効率的で意味のあることなんですよね。

なんでかっていうと、プログラミングはプログラムをつくること、実装することに意味があるから。
絵は描くことに意味があるし、歌は歌うことに意味がある。(と思ってる。)

そういう自己表現(など、具体的な目的)のためのツールって、その目的を達成しなくちゃ意味がない。
勿論、人を感動させるために歌うっていうのもあるけど、それは人を感動させる理論や形式に沿って感動させてるんじゃなくて、
自分の想いを相手に伝える(表現する)から、感動させられるんでしょう、って僕は考えています。
(この"考え"っていうのは論理だけど、これは練習や経験を補足するための論理だよ。)

その、意味のための活動を優先するべきで、だから理論だとかあーだとかそういうのは第一じゃないんです。


人工知能って理論とかじゃないんです(語弊はあるけど)。
人間の脳ってほとんど解明されてないんです。


それでも勝手に動いて勝手に生きて勝手に人を感動させてるんだから、そっちが正しいんだと思います。
理論に勝るものもあるんです。

それは、理論よりも優先される意味を持ったモノ、についてなんですよね。


だから僕は悔しいんです。

結局、理論は負け、経験と共存していかなければならない。
そしてそれは意味の下にある、っていうメタ理論を考えて、なんとか反抗しています。



だってそうじゃないと、この20年間論理をずっと追いかけてきて、
実は走ってたのは循環論法の円の上で、
結局正しかったのはそうじゃないってことに、グルっと円周を回ってきて気付いてしまったなんて、つらい。