長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

歯にゴミ (量子の話を少し)

8/24のことも書きます。寝ません。

久しぶりに虫歯ができたらしくて鬱です。


なんか、寝てたら人が来て起きました。

なんか、ポケモンとかいうのを捕まえるアプリが更新されてたんで更新してみたら思いのほか興奮してしまって、タマタマをクールなレディに見せつけまくって驚かれていたら昼過ぎてました。

そのまま友達と飯に行って、結局近所の公園に散歩しに行ってしまいました。

皆さん用事があるらしく、三時間くらいしかいれなかったので僕は不服です。


僕には"友達"がいっぱいいる(と思う)んですけど、その理由として「怒らない」というのがあると思います。

そりゃあ怒らなかったら誰とでも表面上仲良くできますからね。

今日も朝急に来た友達がうちにゴミ(食ったチョコとコンビニの袋と空いたペットボトル)を置いていったんですけど。
あっちこっちにゴミ。はいゴミ。

確かに、イラッともしたんですけど、別にいいやと思った理由としてどうでもいいと思いました。

前回の記事とまえーーの記事
jumffff.hatenablog.com
jumffff.hatenablog.com
が関連したことを書いているので、読んでいると理解が深まると思います。

僕の気持ちを要約すると、
他人に迷惑をかけられたところで自分に大した影響もない。
それに加えてもしかしたら相手に情状酌量の余地があるかもしれない。
という二点があります。

一つ目については、前回の記事の気持ちを読んでくれれば大体わかると思うので詳細は省きますが、つまりなんで自分は生きているのかなどといった哲学的問いの前には「友達がゴミを置いていった」などといった小さなことは無視できるという気持ちです。

二つ目について、少し話していこうかと思います。

簡単に言うとまえーーの記事で言っていることなのですが、他人のことなんて何もかもわかっているわけじゃないです。

例えば極端な例になりますが、今日ゴミを置いていったゴミみたいな友達は、もしかしたらADHDで、だけどそれを本人も周りも気が付いていなくて、散々周囲に注意されてもう鬱病だけど、それを隠して生きているかもしれません。
それでもつい、注意を忘れてゴミを置いて行ってしまった。
そうだったら、善良な僕はそんな彼を責められないです。

他にもあります。ゴミを捨てて行くことで僕の、自分の部屋を綺麗にしたいという意識に働きかけているのかもしれません。

彼のために怒ってやれという意見もあるかもしれませんが、僕はそんなにできた人じゃないので。
お前が言うなと一蹴されるかもしれませんし、素直に謝られて空気が悪くなるかもしれませんし、何より、そんなに人に興味がない。
それがその人でしょう。

話は戻りますが、僕が怒るべきではない可能性もなくはない、という考え方をしてしまうので怒る気が失せます。

これは量子論のような思考法を借りています。


理系でない人のために雑多に説明すると、宇宙にはとても特殊な粒子があり、
ある二つの可能性の状態をどっちも同時に持っているというものです。
意味が分からないと思うので有名な例を調べてください。
シュレディンガーの猫などといった実験が有名です。

箱を閉じた十分後に1/2の確率で毒ガスが噴出される箱があります。その中に猫を閉じ込めます。
すると十分後には猫は生きているでしょうか死んでいるでしょうか。

それは観測するまでわかりません。

しかし、箱の中を何らかの方法(箱を開ける、サーモグラフィーとかで観る)で観測したら死んでいる状態と生きている状態のどちらかに定まります。

観測するまでは死んでいるか生きているかわからない、二つの状態が入り混じった状態で、観測するという行為によりそれが一つの状態に収束した、という考えが量子の動きを表します。

実際にそのような物体(?)が存在します。

例えばボールを、1/2の確率で左に投げ、1/2の確率で右に投げるとします。
どっちが起きるかは知らず、どっちが行われたあなたは知らない(観ていない)とします。
しかし、左か右のどちらかにはボールが飛んでいますよね。どっちにも飛んでいるということはないはずです。
そして、観測すれば答え合わせができます。あ、左に飛んでいた。と。

しかし、量子の場合は別です。
上で投げたボールを量子に置き換えて考えると、どっちに量子が飛んだかを観測しておかなければ、両方の方向に量子が存在するのです。観ていなかったら左にも右にも量子がある!
じゃあ投げるところを観ていたらどうなるか?左に投げます。すると左に一つだけ飛んでいきます。
謎。
これをちゃんと説明したのがかの有名な量子スリットの実験です。調べてください。

観てるか観てないかで状態が変わる(観るまでは何だかわからない)、意味わからんがやつが量子です。
こんな原理を使ってるのが最近流行ってる量子コンピュータです。


話が逸れましたが、つまりここで言いたいことは、事実なんて分からないのでまだ自分は人に怒れないんじゃないか。
という気持ちがあります。
もし仮に相手が、「私に怒ってもいいよ」と言うのでしたら相手が認めていますし、その発言が事実に基づいていようがいまいが怒っていいと思います。
また、「怒るべきなのかわからないけど私の気持ちを伝えるよ」などと前置きして言うのもまたとても良い関係を築けそうですね。
ただ、私はそこまで真人間じゃないので、めんどくさくなってしまいすね。

はいゴミ。

それだと特に怒らない、温厚な人っぽくて特に悪いことがないんですが、これはいいことばかりではないんですよね。

前回の記事に続き、完璧主義同様に自分のダメ人間を加速させています。

どういうことかと言うと、怒らないという視点が怒れないという視点に変わりますから、
常にそのような「人に怒れない」という強迫観念に追われてストレスが溜まります。
そしてそれが自分に刷り込まれていくと、「自分は怒られるべきではない」という思考になっていきます。

簡単に言うと、「相手は自分のことをすべてわかっているわけではないんだから、怒るのはお門違いなのではないか。
もし仮に何らかの正当な理由があれば責められるべきは相手だ。」
といったような思考に陥ってしまいます。

例えばこれも極端ですが、「なんで遅刻したんだ!ふざけんな死ね!」と言われたとき、「親が亡くなりました…。すみません死にます…。」とか答えたら「あぁ…。」という空気になって、なんか立場が逆転しますよね。

ただ、仮に相手が上司や先生であれば自分が迷惑をかけており、責任問題がありますから、それについて言及するのは当たり前のことです。
私もそれで口答えするほどゴミじゃないです。

しかし、心のどこかで自分を肯定してしまっているというのがあります。

その結果が、
怒らない→怒れない→怒られるべきではない→自分の行動(あるいは事実)が他者に観測されない限り確定しない→他者の存在は確定しない→何をしても良い
です。

例えば遅刻した例として嘘をつくなんていうのはよくあることなのでまあ良いです。

これまた極端な例を出せば、「自分はうつ病かもしれないので今休んでも良いし、本当にうつ病だった場合自分も他人も責められない」などといった視点です。
勿論、色々とまずい(人に失礼など)視点なのでこのような視点はわかりやすい一例としただけで実際には用いていませんが、要は似たような視点をいくつか持っています。

私は「陰でめちゃくちゃな努力をしている(かもしれない)から自信があるし優秀な人々と対等に会話をする」とか。

虚言癖とかとは少し違います。
人に話したら収束しますし、自己暗示であったり、自分に嘘をつくと言った感覚でしょうか。

当然、人に怒られても何とも思わなくなってきます。
「まーこの人は俺のこと知らない(本当は事実通りに怒られているのだけれど、他の可能性を見返ることなく怒っているのだ)しなー。」
ズレが日に日に増します。

その結果がこれです。
その結果無気力で空っぽな人間になってしまった。

「怒らない、寛容で優しい人。」の実態は、
「怒れない、人に無関心な人。」であって、
「自分を許してしまう甘い人。」へとなったんです。





とでも言っておけば、
自分がただ、怠惰している可能性に目を瞑ることができます。
しかし、大概のあなた方はそれに注意することはできません。
何故なら私は脳に、重大な疾患を抱えているかもしれませんし、大体、あなた方に注意されても、毎回、「はいはい」と流せてしまう長瀬でいますから。


青々と生い茂る社会という大きな樹の、葉にゴミなのです。ハハハ