このMを、見よ!
(タイトルは僕がこないだドハマりした漫画「このSを、見よ!」から)
僕はマゾヒストの本質に気付いてしまった。
しかし僕はサディストなので世の中のマゾヒストの潜在意識を暴き、辱めるためにマゾヒスト理論をここに展開する。
この記事を読んだ方は是非、「私のいじめられているときの興奮はここにあったのか…」とか「俺はいじめているアイツのことが好きだったのか…」とか「私たちやっぱりラブラブだ…」などと思って愛を深めていただきたく思いません。早く別れてください。
まず、大前提として「セックスはノーマルなプレイである」としよう。
生物学的にも諸々でもそれを認めてよいだろう。
アブノーマルなプレイ
「セックスはノーマルなプレイである」とすると、
当然ノーマルなプレイから逸脱するプレイ(SM、野外、相互オナニー、など)は「ノーマルなプレイ」ではなくなる。
それはある種、本質的な行為ではない(子孫繁栄などにおいて必要ない)ものであり、いわば馬鹿らしいものである。
公共の場でいちゃつく男女に苛立ちを覚えるのもおそらくそう言った理由からだろう(???)
公共の場でいちゃつく意味がないのに、彼らはそのような「プレイ」を楽しんでいるのだ。
だから客観的に見ると馬鹿らしいし、イライラする(他の理由はたぶんないはず)。
じゃあ、そのような「馬鹿なプレイ」をすることができる関係とはどういった関係か。
それは真に「馬鹿同士」あるいは「信頼し合った関係」だと思う。
馬鹿な姿を見せられるし、馬鹿なことを楽しみ合えるのは信頼の証拠だ。
ここで、信頼関係を築けることと馬鹿である(馬鹿になれる)ことに相関があるだろうという推測が成されるが、特に今回は言及しない。
また、ノーマルなセックスに信頼関係が要らないという定理も導けると推測されるが、今回はこちらも触れない。証明は各自。
ともかく、「アブノーマルなプレイをするには心の距離が近い必要がある」ことがわかった。
また、以上の話は「馬鹿らしさ」を主軸に議論を進めてきたが、その部分を「後ろめたさ」「恥ずかしさ」などに置き換えても同様の議論が展開できるだろう。
SMの話
SMはアブノーマルなプレイであることは明らかであろう。
「性交」という行為だけを純粋なプレイとしておけば、軽いSMから深いSMまで違いはあれど、どれもアブノーマルであると考えることにしよう。
さて、SMはアブノーマルなプレイであるから、SMをするには心の距離が近い必要がある。(前節で言及した。)
それについてもう少し掘り下げてみよう。(SMに限って考えたときの馬鹿らしさや恥ずかしさについて考えてみる。)
では、いじめられるとどうなるだろうか。プレイに限らず一般的な話で解釈していく。
いじめられるとはつまり立場的に弱くなることである。マウントポジションを取られることだ。
立場的に弱くなる状態は情けない。そして恥ずかしい。弱みが相手に曝されている状態だ。
どうしようもない。
いじめられている側に成す術はない。
立場的に弱いから、何か同等な手段で打ち負かすかいじめ返すか、しかないたぶん。
悔しい。何もできない。恥ずかしい。自分は情けない。絶望。
ここでプレイの話に戻してみよう。
どうしようもない。
いじめられている側に成す術はない。
悔しい。何もできない。
ここで一つ違うのは、これがプレイであること、である。
互いに望んでこの状況(何らかの力による上下関係)に陥っている。
つまり、(いじめられてる側の)恥ずかしく情けないという状態を、
(いじめている側は)許して受け入れている(むしろそれを喜ばしいとすら思っている)状態である。
これは圧倒的な「許し」であり「甘え」、あるいは「愛」ではないだろうか。
わざわざ自分の弱みを顕わにされ、それを慰められる、これがいじめなのである。
(慰め方に個人差はあれど、どれもその弱みを許し認めた上で行われることが重要。)
SMのツンデレ性
例えば、「この変態。」といういじめがあるとしよう。
これはプレイであるから、
「この変態。(だけどそんなところもちゃんと分かってるし認めてるよ。)」と解釈することはできなくないだろう。
「この変態。」という罵声の中には愛や許し、そして「でも私の前では変態でいいんだからねっ」というツンデレまでもが想像できる。
おいオタク、ツンデレ大好きなんだからこの意味が分かるだろう。
シンプルなSMプレイの中にはツンデレが既に内在していたということだ。
「大きな声が出てるね…(でもそんな破廉恥で感じちゃっている君が好きだ)。」とか、
「この豚野郎!鞭で打たれて感じてんじゃねえ!(でも鞭で打ってやるよ!構ってやるよ!引かないでやるよ!)」
強制的甘え/プライドといじめ
もう一つ、重要な結果を挙げておこう。
いじめられている者のジレンマとして、プライドが高ければ高いほどいじめの効果が大きいというのが挙げられる。
プライドが高いほど立場的優位に立ちたがる、あるいは自分の弱みを認めたくないと考えれば、
そんな人がいじめられた(弱者になった)ときに受ける衝撃は大きくなると予想できるだろう。
しかし、常に強者で居続けることは時にストレスとなる。たまには甘えたくもなるだろう。
しかし、甘えることは恥ずかしい。自分のプライドがそれを許さない。甘えたいことを拒絶されることはダサすぎる。
こんな前提の上で考えます。プライドが高い人がいじめられたらどうなるだろうか。
当然とても大きな衝撃を受けます。そして悔しいですが何もできません。そんなときに顕れてくるのがSMの本質「許し」「甘え」である。
何もできない弱い立場に落とされていますから、目の前に降りてきた糸(愛)にすがるしかありません。
つまり、プライドに雁字搦めにされている甘えるのが苦手な男が、強制的に甘えざるを得ない状況に持って行かれる。
甘えたいんだけど普段甘えられないから困ってるのに、無理矢理甘えさせられるから心がかき乱されて興奮する。
いじめられるということは無理矢理甘えざるを得ない状況に持って行かれるということだ。
このような形でどうだろうか。
SM好きもSM嫌いも、SMに関する印象が何かしら変わってくれたら嬉しい。
そして今後のQOS(クオリティ・オブ・セックス)に役立ててくれれば幸いである。
この記事を読みながらSもMも興奮してくれることを祈ります。