長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

中学六十年生

今日はじいちゃんと飯に行きました。
じいちゃんの目医者が近くにあるそうで、そのついでに飯に行きました。

焼肉でした。やったー。
お金と食べる量を気にしなくていい焼肉は面倒くささ(誰が何を焼く?誰が何を食う?何をどのくらい頼む?)がなく最高でした。
焼肉嫌いじゃなくなった。

じいちゃんとはじいちゃんとらしからぬ話で盛り上がれるようになったので楽しい。

ここに書くのも憚られるような内容のことなので憚る。


じいちゃんと今日主に話したのは哲学だった。

善悪とは何か。何が正しいのか。生きている意味とは。
概ねそんなことだ。

こんな、中二病な話をできる友達はいないという話になった。
中二病のまま成長してきて、成功している大人はカッコいい。
しかし、中二病のまま成長している20そこそこのガキはダサい。
僕はそう言った理由で中二病のから脱し、中二病の殻を上に他の殻を何枚も被せていくことで成長してきた。

善悪とは何か。そんなことはわからないけど、少なくとも正しさに反することは善ではないね。
とかを話した。「不実ならば不義」だ。だとかなんとか。
不実(正しくない)ということについて悩んでいるから激論になった。

正しくないなんていうことはその考えている尺度によって異なる。
一般的なルール(法律とか)を基準に設ければ、当然法律違反は不実だし、法律を守ろうとしている集団の中でのイレギュラー(裏切り行為)なわけだから、不義でもある。

じゃあすべての尺度で正しいことは何か。

それはおそらく存在しないと思う。


そしてそれと同様の議論で、正しさの尺度のはかり方に「生きるため」とか、
そう言った生きている意味に指図される考え方が確かに存在するだろう。
しかし、「生きる意味とは何か」ということも考えている尺度によって異なってしまう。
今、限りなく今に近い時間軸だけを見れば僕が生きている意味はブログを書くためだけれど、
もっと広く見れば単位を取るため、大学を卒業するため、社会に出るため、と無限に生きる意味が存在しどんどん大きな集合を構成できる。
個人じゃなくて人間で言うと、例えば家族という尺度で見れば家族を幸せにすることが生きている意味だし、
生物学やヒトという尺度で見れば子孫繁栄が生きている意味かもしれない。

じゃあすべての尺度で生きている意味とは何か。

この無限に大きくなっていく生きる意味集合を限りなく大きくしたとき、そこに得られるものは、
おそらく存在しないのだと思う。

それこそ神の域や視点に到達しないと何も分からないと思う
絶対に正しいことなんてないように、万人に通じる生きる意味なんてないのではないだろうか。。

そこでじいちゃんから面白い話を聞いた。
「人間も地球を蝕む生物の一種でしかなく、ネズミや家畜などの下級生物と所詮は同じなのである。しかしそうなってしまっては法も仏もない。だから偉い人は、人間は神に一番近い高級な生物だと人間に考えさせることで善悪などと言った幻想を浸透させていったのだ。」
はっきり言ってなるほどofなるほどとなってしまった。

じいちゃんは昔から中二病をこじらせてそのまま迷いなく人生を成功させてしまっている人なので、
僕の根底にある中二病(そこから自我が芽生えているだけで土の中にある中二病は普段知覚されない)が刺激されてしまい大いに話が盛り上がる。

つまり、人間も家畜も生きている意味などないから、どれだけ高級そうな生きる意味を持ってきても無駄なのだ。
(社会をより良くする、環境問題を解決する、日本の未来に役立つ、とかそんなの意味がない)

じゃあどうするか?

楽しめばいいんじゃないか?

じいちゃんは俳句をやっている。
俳句というのは17文字というこれっぽちで、それことこれっぽちなものを描写して趣を感じるものでしかない。
神の視点からははるかに遠いことである。
しかし、こういったことにのめりこむ(生きる意味は考えない)ということのほうが生きることの本質であり、
すなわち神に近づけるんじゃないか。

そう思った次第。
じいちゃんは73にもなってまだまだしたいことがいっぱいありそうで、だけどいつ死ねるか心配だと言っている。
とてもイキイキとしている。

でも一方で、僕はそんなすぐに何かにのめり込める度胸はない20歳の死体。
とても鬱々としている。