長い書き損じ

「あーっ。」と、ね。

鬱々と大口をたたく

先日アンケートを取ったんですけど、


こんなことになりました。
まあ、明日(今日)期末なんですけど、何か思い立ったので最近自分が鬱々としていることを書こうかと思っている次第。
(なぜか酒が入っているし。)
脳科学人気なくてウェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!

この話を読んでしまって、僕のことを「何言ってんだかわけわからん」って思ってしまうような人は根本的に違う人種なので、一定の距離感と節度、もしくは溢れる慈愛の精神で接してくれるとありがたいです。

最近僕は大学をやめたいです。これに尽きると思う。

自分の近況から気分の振動まで

そもそもなぜ大学をやめたくなったんだろうか。
いきなりなんですけど、自分は所謂鬱の家系(母、祖母、叔母がそういうの)で、たぶん遺伝とか家庭環境(外乱が大きすぎるので一概には言えない)とかがあって、まあ鬱々としてしまうわけです。
しかし、基本的に僕は馬鹿なのでやるべきことを先延ばしにしてしまいます。
今期(2年後期)36単位履修していて、一限が4つあるのですが、初週で体調を崩してシルバーウィークに入り、「もうだめだ」ってなって以来行ってない授業とかがあっちゃうくらいだめな人です。
その結果課題やテストの勉強に追われる人になってしまいます。
ところで僕のもう一つだめなところはうつ病への理解があるというところです。自分が精神的にも体力的にも限界を迎えていることを理解していても、無理すべきなのかすべきでないのかわかってしまうわけです。
課題やテストが近づいてきて、「これは無理しないと落とせない単位も落とすし無理すればなんとかなるぞ」「あっ、今日はだめだ。俺のすべてが拒否している。」とか思ってしまうわけです。
みなさんも自分のメンタルがゲージのように視えると思うんですけど(?)、僕は最近コップに視えていて、段々とひびが入って中に入ってるメンタルの液体が漏れだすんです。あ、今の日常はやばいな、日々を修繕しないと。となって、大学を休むわけです。
知ってる人は知ってると思うのですが、9月に体調を崩し、10月に学祭の準備をし、11月に学祭と中間があり、12月にレポートととある事件がきて、1月の期末です。
今更何を言うのかとお思いでしょうが、僕にとって忙しかった!しんどかった。
疲れてしまったわけです。そんでまあ(聞きたい人は個人的に聞いて欲しいのですが)精神的にも色々来ていて、幸せとは何かについて考え始めたわけです。(その日過去最悪ぐらいの悪夢を見てツイートしました。)

結局幸せってなんだろう、何のために生きているんだろう。

生きる意義としての研究と朽ちる意思を知っての言及

何のために生きているんだ。
そう思ったときぼくはまず、数学を初めとして理解の行き届いていない学問、研究対象や研究分野がたくさんあることを考えました。
自分が現象数理に惹かれたのは、そもそも学部4年間という短い期間でできる限り多くの分野を研究できる学問だという思いだったと記憶しています。生物も化学も物理も社会学も興味があるけれど、そんなに大学行ってらんないから全部数学でやろう、という魂胆だったと認識しています。
つまり、自分には知的好奇心惹かれるものがまだまだたくさんあるんだから、死んでらんない、ということです。
それに気づいてしまったとき、自分は不老不死にならなければならないと本気で思いました。
もともと脳科学には興味を持っていたため(その理由というのも人間を解明できれば人体実験がシミュレーションでき、人間からなる現象はおおよそ解決できる-多くの分野を研究できる-ということなのですが)比較的抵抗はない進路でした。
不老不死研究を色々と検討していて、脳科学、神経科学関連の書籍を読み耽っていたときのことです。

不老不死になっちゃったら、何が楽しいんだろう。

不老不死苦労無理

何が楽しいんだろうw
確かに研究は好きです。知的好奇心を満たされることにも喜びを感じます。
でも、じゃあ喜びを感じたり、好きなことをするために不老不死になるのか。
まあ確かに一理ある。でも遠回りすぎじゃないか。本当に不老不死になったら自分は何がしたいだろう。

そう考えた結果、ただ女の子を眺めていたいと思いました(?)
当初の自分の計画では、人工知能や電脳知能として自分の脳を情報として残す方法が一番有効だろうなという考えに達したため、不老不死になった私はネットを自在に行き来します。そしてデータも無限に収集します。
そうなったとき、とにかく百合情報に満たされることが至福だろう、という考えに行き着きました。
研究も交際も楽しむ?それは確かに良い結論ですね。しかし自分は際限なく異性のために生きれるなら本望だとも思います。
でも、異性のために生きること、それは不老不死である必要がないんですよね…。
馬鹿馬鹿しいと思ったそこのあなた、だったら不老不死になったらあなたは何しますか。、、

愛ゆえのアイロニー

あまり大口たたくことではないと思ってるのでTwitterでもあまり言及していないですし、自分はオタクでありたくないので「百合厨」が好きではないのですが、あえて言わせてもらうならば僕は百合厨ないし百合キチだと思います。
理論や論理的整合を取りながら思考と嗜好を重ねているので中々の変態だと自覚しています。かなしきかな。
そのようなわけで自分は異性のために生きたい、そこにこそ幸せがある、と考えたわけです。
自分が思う幸せは彼女との同棲、嫁との夫婦生活などのそれです。ここら辺は人によりけりだと思います(不老不死になってすることがことなるような公理系の人なんてもちろんの話です)。
ここまで考えて、「ああ、いいなあ」と心から思ってしまいました。
怒られるかもしれませんが、数学やる意味ねえなあと思ってしまいました。

もう、女の子とずっとただ生きていたい!!!!!

そうしたら、
フリーターでも高卒幸せは得られ得るな、って気づいてしまったわけです。
元々大学生活、学生生活に向いていなかった自分です。
やる気のない意志の弱いゆとり世代の人間です。
フリーターで、良いんじゃないか…?大学をやめたい…、社会性を捨てたい…。

しゃきっとせいよ社会性よ

たぶん僕は社会に入ったらそれとなく適当に生きていける人です。
上述のようにそれで幸せに生きていけると思います。
じゃあなんでそのために今大学に行ってるのか。
なんで数学をやってるのか。
役に立つ数学?研究職に就ける数学?
いやいや、僕は楽しいことがしたいから不老不死になりたくて、不老不死になって幸せになりたいんだ。
楽しい数学だけ、幸せな数学だけ、すればいいじゃん…。
大学、やめたい…。

今週の期末は3個程寝ブッチしました。

後悔、変。どうかしてる(高階偏導関数

自分はヘラヘラしてるように見えますけどとても冷静にメンヘラしているだけです。基本的に優しい人が好きです。
冷静に理性的に、深く深く物事を考えてしまって病むタイプの人間なので、自分が精神的に追い込まれて起こる最悪の状況を自分なりに想像してみた上で悩んでいます。
なので、「そんなのダメだよ。」って叱られたって、「わかってるよ。」ってなるだけなんです。叱るぐらいなら抗鬱剤でも処方してくれw

現段階でいうと留年が最悪の状況です。
自分は今授業をサボったツケが回ってきて、課題や期末の勉強に追われています。
正直後悔しています。でもサボらなければ良かった、と思う反面、サボる運命にあったんだろうな、と思っています。
だから後悔することを後悔していません。後悔する覚悟を持ってサボっています。

今の自分は留年をまだ覚悟できません。覚悟できないから、留年だけは何とか逃れようと思っています。
頑張れるかわからないけど、少なくとも3年後期に無理する必要はあると思っています。
「後悔する覚悟」っていうのはすごい僕の人生に重要なことだと思っています。それのおかげでたぶん今まで僕はギリギリセーフで生きてこれた。何も考えてないんじゃなくて、何も考えなくするために全力で余裕を作ってるんです。
大学やめたいですけど、大学をやめるべきではないということは理解しているんです。社会的に。
これは人間の性です。大愚痴叩いてしまったけど、仕方がない。

強いて言うなら人間に生まれてきて後悔することを覚悟せずに生まれてきてしまったことを後悔している。


というわけでおやすみなさい👍



追記?

この話を読んでしまって、僕のことを「甘えてんじゃねえよ死ね」って思ってしまう人は強い人だと思います。素直に尊敬します。
僕は確かに家庭環境もそんなに悪くないし何不自由なく育ててもらえて親にもすごい感謝しているし、贅沢な人間だと思います。甘えてるかもしれません。
でも、ここまで読む優しさがあるのに、甘えてる人を許せる余裕もないようなつらい、つらい人生のあなたのことをこんな身分の僕ですが心配します。僕の口を叩くくらいなら愚痴を聞かせてください。
飲みにでも行きましょう。てヵどこ住み?w LINEやってる?w

DMでもください。



少し違う話ですが、信頼する覚悟って難しいなあって思いました。
人に頼って裏切られるリスクや過度の信頼をしてしまうくらいなら一人で良いよっていうのがあります。
友達に頼ることが全然なかったんですけど、
それは今まで自分が全力で頑張ったことがないので、後々に課せられるものがいくらきつくても全部自分のせいなんですよね。
あのときサボったからだ、って。
それなら冷静に無理してでも頑張って自力で対処するしかない、そうするべきだと思うんです。自分のせいだから。
そう思ってきたんですけど、人に頼るべきだったのに頼らなかった、という後悔もあるのかあと思っています。
裏切られるリスクより頼らなかったリスクのが大きいパターンの存在を覚悟できていなかったことに後悔しています。
あとは、本能や心で信頼しているパターンです。友達に頼る必要がなかったので、友達を信じる必要もなければ「信じない必要も」なかったんです。ここまで散々理性的だ云々言っておいて、「信じない」ということはできてなかったのかもしれません。
「信じない」をしていなかったので、裏切られたときに、「あ、そうか(頼ってないし相手は裏切ってもいないのか)」となってしまいました。これはかなり心がポカーンとなります。
せっかく日々ヒビを修繕していた心のコップが、急にひっくり返されたような、そんな気分になりました。まだ、理性が足りない。

またヘラヘラと一つ成長してしまいました。早く人間をやめたい。